Diary over Finite Fields

515ひかるが書き溜めたメモとコラムと雑記

いつもの朝に

朝の地下鉄のホームで、定刻より遅れている列車を待っている。

喧騒と人混みの中で忙しく本を読む姿は、いまのこの世界に絶望しかなくて少しでも長い時間違う世界に居たいのではないかと思わせるほどだった。

嘘だ。彼女はこの世界を楽しんでいるし(少なくとも僕よりは)、これは僕にとって魅力的な人への幻想、誇大妄想だ。

つまらないのか、ページを繰る手がいつもよりも少し早い気がする。僕は目の前にいるのにその人が遠く感じられて、なんとなく話しかける勇気も出ずいつものように考え事をしているフリをする。

「ニーチェって知ってる?」

目線を本に向けたまま彼女は尋ねた。僕は哲学者であることしか知らない、と答えると、まぁ普通はそれくらいの認識だよねと続け、

「訳本の質がひどかったんだけど、今読んでるのも同じ匂いを感じる」

と僕に本を見せてくれた。本当はもっと否定的なニュアンスな言葉なのに、この文面だと導きというか示唆の言葉に読み取れるじゃない、と。僕は正直あまり興味がわかずそうなんですねと曖昧にうなづいた。

列車が風と轟音を運んで来て、会話はそこで終わった。


僕らは毎朝ふたりで通学していた。僕はゼミに配属されて間もない学部4年、彼女が僕より2つ歳上で同じ学科の先輩だった。今は大学院生だ。知り合ったのはサークルが一緒で講義のこととか先生の評判とかを聞くようになったのがきっかけ。とはいってもそこまで親しいわけでもなかったはずだった。

こんな習慣ができたきっかけは彼女のほうで。朝研究する習慣を身に付けたいと思って早起きして喫茶店で読書したりしているのだと僕に言った。その習慣いいですねと言ったら、キミも来る?とどこまで本気かわからない感じで誘われたのだ。

なんとなく、1度行ってみるかと思い月曜日に顔を出してみたら、おはようと一言いって本人はずっと読書をしていた。空いている彼女の向かいの席に座りコーヒーを注文して、僕ももってきた小説を読み始めたところ、

「SF読むんだ」

と目線を下に落としたまま言われた。えぇ、少しなどと曖昧な返事をすると、私はあまり読んだことないんだけどと前置きした後でレイ・ブラッドベリの話をされた。華氏なんとかってタイトルだった気がするが、未だに僕はその本を読んでいない。

だけど、彼女から突然振られるそんな他愛もない雑談や、突然差し込まれる研究の話題、何よりなんとなくの居心地の良さから僕はこの時間を気に入ってしまい、翌日も、その翌日も同じ喫茶店に立ち寄るようになった。

別に好意があったわけでも、特別親しかったわけでもないのだけど、僕が早起きの習慣を身に付けたのはこれが人生最初で、半年以上続いていた。


「来週から教育実習なんですよ」

地下鉄に乗り込み、発車したあたりで僕は切り出した。今までなんとなく言い出せずにいて、結局こんな直前になってしまった。

「そうか、そんな時期だね」

といって、自身の教育実習の思い出話をされた。担当教員が高圧的だったこと、最終日にサプライズ的なものがあるのかと思いきや何もなかったこと、授業は散々だったことなど。

「だから今大学院生やってるんだよ」

と言って彼女は笑ったけど、とても冗談には聞こえなかった。彼女の話はそれなりに知識がないと難しいことばかりだ。

結局彼女の思い出話を聞いていたら大学の最寄駅についてしまった。向かう棟が微妙にずれていて僕らはたいてい改札で別れる。

「じゃあ、またね」

はい、と答え僕らは互いに背を向ける。いつもの僕らの別れ際の挨拶だ。

「2週間会えないのか、さみしいね」と言ってもらいたかったが、それはきっと高望みなんだろう。


教育実習は散々だった。1日に1回は叱られ、1日に1回は生徒に笑われた。研究授業はなんとかこなしたものの、どうも通常の教育実習生よりも問題児のように思われて居たらしく、生徒よりも目をつけられていたのではないだろうかと思う。自分でいうのもなんだが、僕は正直すぎるだけだと思う。

このとてもとても大変な2週間は、「この時間が終われば、またあの喫茶店の日常に戻れるんだ」ということを胸に乗り切った。それでもとても疲れて、とても長くて、人生でもっとも大変な時期のひとつだ。

実習最終日には生徒から寄せ書きをもらったけど義理で書いたコメントがほとんどで興ざめしてしまった。それが顔に出ていたのか、最終日のホームルームまで結局気まずいままだった。

僕もきっと教員には向いて居ないや、という話をしようと思って月曜日を心待ちにしていた。



いつもの喫茶店にいつもの時間につくと、いつもの席に座っているはずの彼女がいなかった。

どうしたのかと思ったが、いつもの席に座る。一番奥の右側の席、店員さんが注文を取りに来る。

「お久しぶりです、今日はおひとりなんですね」

さすがに毎朝通うとチェーン店とは言えども顔を覚えられるらしい、というのは結構前から気づいていた。僕はこういう会話が苦手なので、えぇ、まぁと曖昧に答える。そしていつものコーヒーを注文する。

店員はコーヒーを持って来て以降話しかけることもなく、僕はひとり本を読んでいる。しかし10分、15分と経っても彼女は来なかった。連絡をしようか迷う。

何度か彼女は来なかったことがあり、そのときは連絡があった。しかし教育実習中も含めて連絡は一言もなかった。僕から連絡しようか、どうしようか。僕はこういう時に優柔不断になるタイプだ。

結局1時間経っても彼女は来なかった。僕は一言、今日は何か用事があったんですかとショートメッセージを送り、ひとりで大学に向かうことにした。

その日は教育実習の報告書みたいなものを書いていたら1日が潰れてしまった。分量というより、彼女から返事が来ないかが気になって集中できなかった。夕方までかけて書き上げてもまだ彼女からの連絡はなかった。


僕は不審に思って、彼女の研究室を訪ねてみることにした。いつもだいたい19時くらいまではそこにいると彼女は言っていたし、彼女の指導教官とは何度か話したことがある。

研究室に向かっていると、彼女の指導教官とすれ違った。おお、なんか用かいと声をかけられたので、渡辺さんはいませんかとつい聞いてしまった。一瞬恥ずかしくなったけど、先生からの返答で吹き飛んでしまった。あれ、聞いてないのという言葉に続いて、

「彼女、急に休学しちゃって。いま多分日本にはいないんじゃないかな」

絶句した。何も聞いていないし、突然すぎた。よくよく聞くと6月からの休学で、僕と教育実習の思い出話をした日にはもう研究室に顔を出さなくなっていたらしい。休学の理由は一身上の都合以上のことは先生の立場上言えないとのことだったが、先生も「彼女が言っていたことが本音だとは思えないんだよな」などと言っていた。結局彼女は理由を誰にも告げず大学を去ったことになる。

それからのことがあまり思い出せない。先生に礼を言って、地下鉄の駅につくまでにショックで止まっていた感情が溢れ出し、泣きながら歩いていた。誰か見ていたかもしれないがどうしても止められなかった。あとは気づいたら家だった。

朝のあの時間以外に会うことはほぼなかったし、一緒に遊びに行ったこともない。でも僕らは友達かそれ以上の何かで、少なくとも終わる時には連絡くらいあるものだと思っていた。

「あんまりじゃないか……」


頭の中には今日話したかったこと、今まで話せなかったこと、今言ってやりたいことなどがぐるぐる回って、思わずまだ返事がないショートメッセージにひとつ付け加えた。

「いま、どこにいるんですか」


一晩中眠れなかった。ジメジメした空気とシトシトと降る雨がより一層徹夜明けの僕を不愉快にさせた。

今日は何も予定がなかったが、いつもの時間、いつもの喫茶店のいつもの席で本を読むことにした。なんとなく、彼女がいないというだけで身に付けた習慣を捨てるのはもったいない気もした。

でもいつもと同じ、違うのは人が一人いないだけ。でもその差は何にも変えられないほど大きい。何より、ここに来るとそれを強く実感する。

目が文字の上をすべって1行も読めないままに過ごしていると、携帯が鳴った。何気なく見ると、彼女からの返信だった。

「黙ってて、ごめん。」

なんの質問の答えにもなっていなかったが、返事がきて安心した気持ちと、やっぱり何も教えてはくれないのかと言う怒りと悲しみがわいてきて、僕の心は落ち着かなかった。僕は昨夜寝ずに中考えて一番聞きたいことだけを返事に書いた。

「また、会えますか」

30分後、返事が来た。

「必ず。」

僕はその返事を読んで、いつものように大学へ向かった。

すべて収まったわけじゃない。言ってやりたいことも、言いたくて言えなかったこともたくさんある。でもまた会えるなら、もう一度あの喫茶店で同じ時を過ごせるなら……いや、もう場所なんてどこでもいい。また彼女に会えるなら、そのときに今の僕の気持ちを晴らせばいい。

この返事の通りに会えるかはわからないけど、根拠のない自信のようなものが湧いて来て僕は少しだけ落ち着いた。

人が溢れている地下鉄のホームで僕はひとつでもニーチェの言葉を思い出そうとした。思い出せたのは彼女の言葉だけだった。

「じゃあ、またね」

ただの挨拶。だけど毎回していた約束。

「また、会えるんですよね……」

僕の独り言は飛び込んで来た地下鉄が消し去った。