Diary over Finite Fields

515ひかるが書き溜めたメモとコラムと雑記

ルールの存在意義

最近ブラウザ開いてはてなブログのエディタに直接書き始め、特に見直しもせずに投稿するようにしている。

僕はこのブログに質のいいものを残したいわけでもないし、その時に思いついた散文を思うままに書き散らして、あとで二度と読み返さないくらいがちょうどいい、と思った。だから思いつくままに書いている。

読者にとってははた迷惑な話だろうが、そもそも僕自身の考えが広く受け入れられるような社会は不健全だと思うので、説得力は低いほうがいいのだろう(とサボるいいわけにする)。


結構前に頭の中に思い浮かんで、最近思い出したことを書く。

ルールは、守る人と守らない人が混在しているときが一番危険だ、つまりルールが浸透していく最中が一番危険だ、ということだ。

例えば、自動車を運転する時*1、日本では左側車線を走る。当たり前だが、ある車は右車線を、ある車は左車線を走れば対向するときに正面衝突する。こうした交通事故を避けるために、左側を走るように定められ、このルールは浸透している。これをもし誰かが破り交通事故でも起こせば、全国ニュースになったり、地方でも新聞の地方版みたいなところには掲載されるようなニュースになる。

一方、最近歩行者と自転車の区別がある歩道があるが、自転車が歩行者の場所を走っても、歩行者が自転車の場所を占有していても、あまり問題にはならない。むしろ日常風景の一部としてしか捉えられないだろう。

ルールは浸透するまでの間、破ったか破ってないかが曖昧になりがちだ。自転車と歩行者の歩道の線引きルールが浸透するまでどのくらいの時間がかかるかわからないし、永遠に浸透しないかもしれないが、わかっていることは「現状が続くならそもそもルールなんてあってもなくても同じ」*2ということだ。

ルールは物事を円滑に進めるためにあり、守るためにあるのではない。もし皆がルール通りに道を使っていれば、自転車は前の自転車とすれ違うことと信号を守ることに注力すればよく、歩行者と接触するリスクは減る。現状では自転車に乗って自転車道を走っていても、歩行者が当たり前のように自転車道を歩いていたりするので、結局自転車は追い越すために歩行者道へ出ないといけない。これではルールが制定された意味がない。

長々と書いたが、僕は自転車と歩行者の線引きルールを徹底してほしくてこの記事を書いているわけではない。

まず、ルールを守っている人と守っていない人が混在する状況は却って人を危険や混乱に至らしめること、そして、ルールを浸透させるには努力をする必要がある、ということを書きたいのだ。

「ルールをこう決めました」では人は動かない。「誰々がルールを守ってくれない」嘆いたところで、上司が怒鳴りつけたって人はそう簡単には変わらない。

ルールを浸透させるためには何をするべきか、ルールを制定する側はそれを徹底的に考える必要がある。

そしてその努力の方法には一般論はあれど結局ケースバイケースで、何らかの方法で努力を重ねるしかない。システマティックにやるか、金を積むか、なんども同じことをいうか、わからないけれど。

ルールは「時間が経てば浸透する」ものではない、時間をかけるだけでなくルールを浸透させる側が、ルールを浸透させるための努力を重ねないといけない。

その責任が果たせないなら、最初からルールを作るだけ時間の無駄なのでやらないほうがいい。

*1:なお僕は普通自動車運転免許を持っていない。教習所にも一度も行ったことがない。しかし今のところさして困っていない。

*2:より強い主張にすればこんなルールないほうが交通事故は減る、という主張になるがさすがにそこまでの主張をする根拠はない。