Diary over Finite Fields

515ひかるが書き溜めたメモとコラムと雑記

人にものを教えることについて

人にものを教えたいと思ったことがない。理由は2つ、責任が重大なのでなるべくならそのような役目は避けて通りたいということと、本来ならばたとえ職場の人間であろうが親であろうが、相手に合わせてものごとを正しく教えるという技術は安売りしていいものではないと思う。

前者については言うまでもない。このブログを読んでもらえばわかるように、僕は人にものを教えられるような人格者ではないし、その人の学習の機会に触れることは、一歩間違えればその人の学習意欲を完全に奪うことさえできる、責任重大な役割だ。気軽に引き受けていいものではない、と僕は感じている。


後者については、少し書く必要があるかもしれない。僕は「正しいこと」*1、あるいは「正しく理解すること」はとても難しいことを知っている。人は簡単に、安易に間違いを犯す。

過去にブログ記事に数学のこととかを書いたことがあるが、その記事の中にも(探したわけではないけれど)きっと間違いはあるだろう。そしてプロの数学者が書いた本、論文などにおいても間違いは存在することがある。数学ではなくとも、プログラムのコードだってよく間違うしその度にコンパイラに指摘されたり実行時エラーを起こしたりする。

全てがそうとは言わないが、所詮無償で公開されている素人が書いたなんらかの専門性のもつ文書はどこかが間違っていると認識してもやりすぎではないだろう。それだけ、人は間違えるものだ。

だからこそ、「正しいこと」を追求することは大変だし、その結果作成されたものを僕たちは尊重しなければならない。

このブログを読んでいるみなさんには信じてもらえないかもしれないが、僕はなるべく「正しいこと」を追求するようにしている*2。同時に正しいことだけで世界は回らないことも知っているので*3、妥協したり投げやりになったりすることもある。

だけど、せめて人に何かを教えるときはなるべく妥協を許さず自分の理解していることを正確に教えようと思うのだ。多くの場合、それは望まれていないが、それが僕の矜持だ。

もちろん、いつも正確に教えているわけではない。というか、全てに対して真摯にやっても、聞く側に興味がないのであればどうしようもない。それはお互いにとって時間の無駄なので、聞き手に合わせて同じ質問でも話す内容は変わる。

知識は高い。Googleから得た"知識"なんかは少し深みにはいればなんの役にも立たないことを僕は知っているし、本当に役に立つ知識ってのはなんらかの代償がないと手に入らないことも僕は知っている(それはお金か時間かその両方のことが多い)。その高い知識を、真摯ささえも持ち合わせていない人間に安売りするわけにはいかないのだ。

*1:特に定義はないが、ざっくりいえば間違っていないことのことだ。

*2:といっても、最近このブログの記事では全く追求されていない。おそらく筆者の体力がないのだろう。

*3:そんな世界は名探偵コナンの中くらいにしかない。