Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

当たり前なこと

今から当たり前のことを書く1。線形代数は大事だ。

さて、線形代数は大事だという主張に対して異議を主張する人はおそらくほとんどいないだろう。線形代数は純粋数学に限らず、応用数学の代表格であるところの統計学、物理学、経済学、コンピューターの内部などありとあらゆる場面で使われている。線形代数の重要性は今更語ることもないだろう。

その当たり前が非自明なケースもある、という話だ。

正しいことはだいたい当たり前なこと

大雑把に言って、正しいことはだいたい当たり前なことである。たとえば「ダイエットに一番いいのは適度な運動と、適量の食事、そして規則正しい生活習慣が大切」というのは知っているはずだし、正しいと、そして当たり前だと思っているだろう。

しかし一方で、その当たり前から目をそらしテレビなりインターネットなりの「エッ」と驚く「当たり前でないこと」に飛びついて物が売れることもある。人は当たり前のことよりもインパクトのあることに飛びついてしまうこともあるのだ。

もちろん、最新の研究結果で過去何十年にもわたって信じられていたことが否定されることもある。その場合、当たり前ではないことでも正しいケースもある。だが、もしそれが本当に正しいのであれば数十年とかかっても当たり前になっていく。かつて線形代数が数学の世界でも当たり前でなかったように。

当たり前なことのほうが伝わらない

先日、ポスト・トゥルースについて書いたが、この「当たり前なこと」以上に「一見意外だが信じられそうなこと」(それが真実であるか否かはともかく)に流されてしまう現象というのはダイエットに留まらず様々なところで見かける現象ではある。

hikaru515.hatenablog.com

当たり前のことのほうが地味で、ウケが悪く、いくら強調しても伝わらない。正しいことは喧伝してもなかなか広まらないが、胡散臭いことはすぐに流布する。

なぜだか考えてみると、自分の行動から考えてみればその情報のインパクトが大きいからなのだろう。例えば、「Fermatの最終定理はもっと簡単に証明できる」と言うと「絶対に間違っているだろ」と思いつつも見に行ってしまう自分がいたりする。Fermatの最終定理の証明の本物にはその論文をダウンロードしようと思ったことさえないのに。

情報を正しさではなく、そのインパクトで見る、見ないを決めているのだ。つまり、当たり前のことは地味で人々の注目を集めず、そもそも書いたとして見られない。一方で、正しさはともかくインパクトのあるものは多くの人に閲覧され、その一部の人に信じられ流布される。

そう、今や情報は「資本主義自由市場経済で販売されている商品」なのだから。

当たり前だから言う

当たり前なことは言う必要がなかった。当たり前という共通の認識を持てていたから。

しかし今や、当たり前だからこそ、伝えていかなくてはいけない時代なのではないだろうか。安易な間違った情報に流されないために、正しいことを、当たり前だと思いながらも発信しなければならないのではないか。

線形代数はありとあらゆる数学の、ひいては物理、情報、経済学の基礎となるような理論であり、これを学ばずして数学に関わる理論を学ぶことは難しいのだと。

あなたが読んでいるこのブログは一個人が気まぐれで書いているものであり、信用するかどうかはあなたの意志に任せ、自己責任なのだと。

本当に大切なことは、当たり前なことの中にあるのだと。

Footnotes

1 といってもいつも当たり前のことしか書いていない。