Diary over Finite Fields

515ひかるが書き溜めたメモとコラムと雑記

人から必要とされたい思ってる人は必要とされない

会ったことがないだろうか、「他人に必要とされたいんだ」と言っている人に。その言葉が何よりも彼らが必要とされない理由だと思う。

多くの場合、人は他人のためよりも自分のためのほうが頑張れるものだ。「俺は仕事で人のために一生懸命やってるぞ」とか思った人は、そもそも仕事でやっているのならお金という形であなたに還元されているので、すべて人のためとは断言できないだろう。

一方で他人のためにしかできないタイプのこともある。例えば、自分のためのツールを作るのなら僕は Web 化したりしない(自分が使う分にはコンソールで使えれば十分だからである)。自分のためにものを作ったり、努力をしたりする場合と他人のために行う場合は異なるベクトルで努力をする。僕の場合は全力を投じるのは自分のためのときということだ。

組織や団体などなんでもいいが、必要とされる人というのは何らかの形で努力をし、かつ他者に還元している人のことだろう。

「必要とされるために努力をする」というのは順番が逆なのだ。「努力した結果論として必要とされる人になる」のだが、このことが根本的にわかっていないのではないかと思う。

やるべきことがわからない、というのは特段変な状態ではない。僕もやるべきことはよくわからないままいろんなことをやっている。

過去に僕は「責任と思考は上に投げつけてやるべき役割をきっちりこなす」ことが非常に楽だと書いたが、最近そうもいかなくなっている。僕が過去に書いたのは、実は「上」がそれなりに優秀で熟考している場合に限る。世の中そう甘くはない、立場や経験が「上」だからといって、僕よりも目の前の問題に対して真摯に考えているかはわからないのだ。

残念なことに、僕も仕事で頭を使わなくてはならなくなった。技術に注力していればいい時間がもう少し欲しかった。そのストレスで最近ブログの更新が増えているのだと思う。

ただ、こうして「僕もこうするべきなんだな」ということを自覚したのはよいことだ。自覚せずに無思考*1のまま仕事を続けていたら、努力のベクトルを間違えて不要な人材の烙印を押されることになったかもしれない。現在も必要な人間なのかはよくわからないが。

きっと上記の、「必要とされたい」人たちはそもそも自分がするべきことを見つけることができていないのだろう*2。なら考えればいい。自分が何をするべきなのか。考えるのが嫌だというのなら、そのままでいればいい。案外うまくいくかもしれない。

僕はきっと人に思われているよりは冷淡な人間だ。興味がない人にはとことん興味がない。今日は興味がない人間を想定して文章を書いたのでこうなった。

*1:さすがに無思考は誇張だが……

*2:あるいは気づいていても努力を怠っているのかもしれないが、そんなことは僕のあずかり知らぬところだ