Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

君が好きだった僕は死にました

表題のフレーズはこの記事を書く数年前に思いついたことだ。具体的に何年前かは言わないが、いつしか「誰かを好きで居る僕」が保てなくなっていて、「その人を好きではない僕」が形成されていった。その時に「あぁ、あのときの僕は死んだのか」と感じた。なので、「君が好きだった僕は死にました」というフレーズになった。

よく思い出せないが、あの自分が変わっていく感じ、変わりたくない自分、変えたい自分がせめぎあう感覚は二度と味わいたくない。あのときから僕は誰も好きになれなくなったのかもしれない。

好きだった僕という変化でなくても、毎日人の中で何かが死んでいき、何かが台頭しているのだと思う。恋に落ちると「恋をしている自分」が生まれ、逆に他の自分が死んでいく。

これは僕だけなのかもしれないが、環境が変わることよりも自分が変わることのほうがずっと怖い。誰かを好きでなくなる自分、好きだった何かを嫌いになる自分、今まで見たこともない自分に、自分では制御できないままに変わっていってしまう。それってものすごく怖くないだろうか。

環境はわりと変えられるし、様々な事情により変わっていく。そこに自分が適度な距離を保ちつつ適合していけばいい、と頭ではわかっている。ただ環境の変化に過剰に適合しすぎたりもするし、あるいは外的要因で自分の感情が変化していくことだってある。そんなとき、自分が自分でなくなってしまうような気がして、今の自分が過去の自分になってしまう──しかもそれが省みられることはない──と考えると、ゾッとするのだ。

自分の変化に一ヶ月経ってから気づくことだってある。「俺ってこんな人間だったっけか?」と思うこともある。さらには、数年前の僕が嫌いだった人間に僕自身がどんどん近づいている気もする。

変わることをやめた瞬間に、きっと人は幸せになれるんだろう。昨日も今日も明日も、きっと同じ自分でい続けられると確信できたらどんなにか幸せなことだろうと思うこともある。ただ、それはそれでゾッとするのだ、イーガンの短編で読んだあの夫婦*1はきっとこの幸せを願った。変わることのないそこそこの幸せを。

昔の僕だったら迷うことなく、「僕は変わり続けたい」というだろう。変わることをやめることは、成長をやめることと同義なのだと。成長をやめることは人が人たるために、自由であるために必要な努力を放棄することだとも。

今の僕は迷っている。このままずっと変わらない自分というのが保証されるのなら、僕はその道を選ぶかもしれない。恐怖からの開放を望むのもまた自由ではないだろうか。

そう、こうしてまた、いつのまにかあの頃の僕が死んでいることに気づくのだ。気付けなくなったときが、いまの僕が死んだときだ。

*1:『ひとりっ子』の「真心」だと思う。