Diary over Finite Fields

515ひかるが書き溜めたメモとコラムと雑記

想像力でものを語る

想像力ってなんだろうかとよく考える。なぜ考えるのかというと、最近想像力が足りない人によく出会うからである。

僕は「三ヶ月後の自分が見ても文脈が分かるように記述をする」ように努力している。このブログも例外ではないので、未来の自分は想定読者の筆頭である。なぜ未来のことを考えながら書くかというと、記述する以上はその記事内で完結していなければならないと思うからである*1。なぜそのような発言をするにいたり、そこで何が話し合われ、そこで何が決まったのかを三ヶ月後の自分が読んでもわかるように書く。そうすれば、三ヶ月後の自分が、三ヶ月前の自分が何を考えてそのような会話や議論をしたのかなどを把握できるからである。

しかしこのように考える人は少数派なのか、会話はするがその会話の記録*2は一切取らない人もそれなりにいる。不思議でならなかったのだが、最近はどうやらそういう人たちは今の自分の行動が未来につながるという想像ができていないのではないか、と思うようになった。

加えて、そういう人は「自分とは違う生き方をしてきた人」に対する想像力も足りないのではないかと思う。真面目に考えれば、僕と全く同じ生き方をしてきた人間など僕以外に存在し得ないわけで、僕以外の人間は自分とは違う生き方をしているわけだ。しかし、例えば体育会系に代表される「カテゴリ」の枠内に居る人たちは、未だにマス(mass)な生き方という幻想が存在していて、自分たちの「カテゴリ」の範囲で観測できたものとは違う人生を歩んだ人間に対してなんらかの想像力を働かせることさえできていないんじゃないかと思う。

例えば、お酒の話。「ビール」とは言えても「アサヒは夏がうまい」とか「エビスは濃いから僕は好き」とか、「ハイネケンが〜」とかいう話ができない人とかいる。その人はお酒は好きだというが、僕とは違う飲み方をしてきたのだろうなと僕は想像力を働かせてその人にそういう話題をふるのをやめる。

例えば、休日の過ごし方。僕はひとりで家にずっといるのが結構好きだが、対外的には想像力を働かせて嘘ではない範囲で活動的な素振りを見せる。映画を見に行くとか料理をするとか言っていることが多い。いずれも嘘ではない。

例えば、異性の話。あるいは性の話。僕は一切話さないことにしている。プライベートなことだからだ。話す相手は選ぶ権利はこちらにあるだろう。このブログでも全く異性の話はしていない*3

どうせ僕がいくら気を使ったところで、彼らには気を使わせた感触さえもないのだろうが、それはそれでいい。こちらも勝手に気を使っているのだし、幸いにしてそのような人間とは仕事でしか関係することがない。

仕事での人間関係なんて仕事場だけの話にするべきだし、気を使うのも仕事なのだ。想像力の欠如した人間に気を使っている俺偉い、そう割り切るのが一番早い。

*1:例外のメディアとしてツイッターがある。ツイッターはかなり文脈に依存した発言をするが、その他の媒体では基本的にひとつの発言、あるいはその周辺にまとまった発言で全文脈を包摂するようにしている。

*2:仕事の内容であっても、である。

*3:できないという説があるが、それも含めて想像にお任せする。