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Diary over Finite Fields

515ひかるが書き溜めたメモとコラムと雑記

いつかは僕も本を読めなくなる

年をとると集中力がなくなるという。本も映画も見えなくてワイドショーしか見えなくなるのだとTwitterで言っている人がいた。

私の親族に読書家と呼べそうな人はいない。僕は僕の家族の中ではかなり本を読むほうだが、それでも最近めっきり読まなくなった。父親は僕が生まれる前からワイドショーしか見ていなかった気がするが、よく思い出すと昔は今よりは新聞も映画も見ていた気がする。母親もたまに本屋に行って雑誌を読むくらいはしていた気がする。姉もいるが、正直わからない。だが昔よりはマンガの比重が大きいんじゃないかと思う。

学生の頃から、Twitterやらなんやらばかりしていて本を読んでいないとは思っていたが、あの頃はまだ体系的な文章や論理的な文章*1に触れる機会があった。著者が何年という時間をかけて紡ぎあげた本を、1ページが1週間かけても読めないという読書*2をしていたのであまりネックに思うことはなかった。

ところが、最近は二流(以下)の文章を流し読むという機会のほうが増えた。楽だが、それが自分の糧になっているのかと問われると疑問である。

本を読んでない、ということに関する危機感は他にもある。自分の興味の範囲が意図せずして狭くなってしまっているのではないかということだ。

人々は自分が知りたいことしか知ろうとしない。ニュースさえも「あなたにあったもの」が推薦される、情報さえも資本主義の商品へと成り下がった時代に、自分の好奇心を広く深く保ちつづけることは難しくなっているように思う。

意図せずして好奇心を失ってしまうということは、とても悲しいことだ。

僕にはまだ知らないことがたくさんある。僕には、まだわからないことも理解したいことも、理解するべきこともたくさんある。そうした知への欲求の源泉がなくなってしまうかもしれない。これほどに恐ろしいことがあるだろうか。

この好奇心はいつか枯れてしまうかもしれない。もしかしたら10年後の自分がこの文章を読み、今の自分のふがいなさに泣いているかもしれないし、もしかしたらすべてを諦めて「あの頃は若かった」と微笑んでいるかもしれない。

でも、少なくともまだまだ若い今の僕は、「いつか自分も本を読めなくなるかもしれない」という恐怖とも、「いつか自分は何事にも興味を示さなくなるかもしれない」という悲しみとも戦いつづけたい。

そのためにも1冊でも積読を消費しよう、そんな風に今は思う。

*1:もっとキャッチーなフレーズを使うと、一流の文章である。

*2:という言葉が適切かは分からない。