Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

わかりやすさの押し付け

「わかりやすい」という表現がよくある。資料の日本語を添削して「このほうがわかりやすいだろう」などと表現する。そもそもわかりやすさなどというものはかなり主観的なもので、ある程度共通したわかりやすさやは存在するだろうが、前提知識などによりわかりやすさは人によって変化する。

と当たり前のことを書き出したが、わかりやすさの押し付けに最近遭遇するのでこの当たり前が思っているよりも当たり前ではないかもしれない、などと思い始めているのである。「わかりやすいプログラミング」、「わかりやすい統計学」、「わかりやすい高校数学」……このようなブログ記事は注目を集め、書籍は書店に並び、人の目をひく。

ただ、疑問なのは最初に書いたようにわかりやすいかどうかはそもそも読者が規定するものであるということだ。とすれば、「筆者にとってはわかりやすいプログラミング」とか、「出版社社員にとってもわかりやすい統計学」などの表題にするべきだろう。

類似の問題として、「わかる~~」(~~にはあらゆる名詞が入る)などという記事や書籍もある。たとえその記事がどんなに素晴らしいものであれ、文字を目で追って頭で考えることなくわかる内容であればそれはそもそも内容が浅い*1記事であることの表れでしかないし、わからなかったらタイトル詐欺でしかない。

こうした冗談のようなコメントをしているのは、「わかりやすい」とか「これでわかる」とかいうタイトルの記事を書くのは、そもそも記事にしている内容について不誠実ではないかと思うからだ。

僕はなるべく「~なんて簡単だ」とか、「~はわかりやすい解説がある」などとは言わないようにしている。それはたいていの(記事にするべき)物事は易しくないからである。

例えばプログラミングのループなんてのは常識であって、さまざまな理由、場面で使用するものであり、僕にとっては常識であるが、聞いた話によれば2重ループの挙動が理解できない人だって存在するらしい。果たして僕にとっても2重ループを使えない人にとってもわかりやすいプログラミングの本を書けるだろうか。

正確を説明をあえて避けて、別のものに例えている記事もある。プログラミングの例が続いて恐縮だが、「変数は箱のようなものだ」などといった言説がある。では変数の正確な定義を教えるのと、変数は箱のようなものと伝えて用例をいくつか見せるのと、どちらが誠実だろうか。

誰もかれもがこんなことにこだわるわけではないから、死ぬまで定義にたどり着かないで終わる人もいるだろう。ひょっとしたら定義を知らないで例えている人だって存在するかもしれない。しかし、だからといってそうした「勉強をしない人」を読者に据えて記事を書き、自分なりのわかりやすさを押し付け、本質的に難しいことさえも「カンタンである」とのたまうのは、あまりにも不誠実に思えるのだ。

どんなことだって先人の発見があり、先人が発見するまでそれは未知で一部の専門家にしか操れなかったものなのだ。その先人の発見を、自分勝手なわかりやすさでもって歪曲させるのは見るに堪えない。

*1:つまりその読者にとっては読む価値がない。