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Diary over Finite Fields

515ひかるが書き溜めたメモとコラムと雑記

本を読むということ, セミナーをするということ.

数学そのものの中身については触れないけれども, 数学の話で若干 Poetical な話をしようかと思う. 僕にとっては大事なことだけれど, きっと多くの人にとっては大事なことではない.

一応言っておくが, ここで言う本とは数学書のことである. 主に数学者が書いた数学の専門書のことを指している.

本を読む理由

少なくともこのブログを読もうなどと思う人のほとんどは, 数学書の読み方と小説の読み方は異なるだろう. 数学書を読むには一行一行, 一言一句正確に読まないと誤解することがある. そうした誤解を防ぐため, たとえば自主セミナーなどで自分の理解が間違っていないかを複数人で検証する機会を設けるわけである*1.

ところで, 上述の目的もあってセミナーをするわけだが, 複数人で 1 冊の本を読む理由を考えたことはあるだろうか.

本から得られるもの

本から得られるものには何があるだろうか.

それはたとえば知識である. しかし, 知識を得たいのであれば, 例えばテキストをひとつに固定する必然性はあるまい. 確かに普通に考えればセミナーしにくいが, 単に事実を勉強したい, 証明したいというだけならば, テキストを固定せずとも複数の本で勉強したほうがいろんな知識が身につくはずである.

では数学の本を読んでいるときに我々は何を読んでいるのだろう. それを読むことで何を身につけているのだろう.

なぜセミナーでは 1 冊の本を複数人で読むのだろう.

ひとつの回答

以下は私なりのこの問いへの回答である.

本を読むうえで重要なのは, 筆者の思想や性格などが垣間見られることだ*2. 普段何気なく読んでいる数学書には, その本の構成, 概念の定義の方法, 命題の順番, 証明の方法などあらゆる情報は実は筆者の思想を暗に表現している. そうしたこともすべて含めて我々は「読んでいる」のである.

あらかじめ言っておくが, すべての数学書でこのような読み方をすることは時間的な制約などでほとんど不可能であろうが, しかし特定の本, 時間をかけるべき本が数学を学んでいるものにはあろう. そうした本はこのような姿勢で読み進めるべきだ.

たとえば, わかりやすいところでは Introduction To Commutative Algebra代数幾何学から見た可換環論という姿勢が 1 冊を通じて一貫していて, 具体例に幾何学的な表現がしばしば現れる. ほかにも, 任意の単位的可換環で成り立つ性質 (要するに一般論) から議論をはじめ, 特殊なクラスの環*3はあとで議論をするという構成になっている.

これはたとえば, 同じ可換環論が書かれている本でも, たとえば堀田良之先生の 『可換環と体』 とはまるで違う構成である. また哲学も多少異なり, 代数幾何学も考えてはいるがホモロジー代数への橋渡しも考えておられるようで, 内容も異なる*4.

目標や哲学がはっきりと自分にとって理解できている本は, 当たり前だが読みやすい. 何を書こうとしているのかが伝わるからである. 逆に言えば, そういうことが見えない状態で読んでいると苦痛が伴う.

筆者がなぜその本を書いたのか, なぜそのような構成なのかなど, 考えたうえで, 欲を言えば理解したうえで, 本を読んでいきたい*5. そんな長い自戒である.

参考

1. Y さん, Private Talk.
2. 志村五郎. 数学をいかに使うか. ちくま学芸文庫, 2010.

*1:あまり意識していない人も居るかもしれないが, これは重要なことだ.

*2:言い換えれば, 本を書くということは自己表現につながるわけである. しかしこの記事での主題はその立場ではない.

*3:Noether 環, Artin 環, Dedekind 環など

*4:具体的にどう異なるかは僕が読んでいないので言及は避ける.

*5:基本的には, やはり原書のほうがこうした情報は増える. 訳を通すとどうしても他人の思想が一度混在するので, たとえ構成などの大筋は変わらなくても情報がぼやけることが起こり得る.