Diary over Finite Fields

515ひかるが書き溜めたメモとコラムと雑記

わかりあうことはできなくても認め合える世界であってほしい

正しいわけでも間違っているわけでもない, どちらが正しいかあるいはどちらが間違っているかそんなのどうだっていいという話でもあるし, 分かり合えなくても認め合うのが 21 世紀でしょうっていう話. 何もわかりませんね. とっとと本題に入りましょうか…

きっかけ

まず言っておくが, 僕はテレビのワイドショーや報道番組をほとんど見ないし, ネットニュースもほとんど読まない*1. 理由はあとで書くことになる.
そんな僕でも, 先月の大阪府(のどこかは覚えていない)で起きた殺人事件の話はなんとなく知っている. 報道もかなり過熱していたのをお盆前後のワイドショーをコーヒー片手に見ながら少しだけ見た. なお, この記事はその事件の中身とは全く関係ないので, この事件のことを知らなくてもこの記事は読めることに注意しておく.

法事の席で

先日, 法事があったので父の実家に行った. 私の家はあまり親戚がおらず, 私の家族が 4 人, 父方の伯父の家族が 3 人の 7 人のみであった. 法事を辺境の地*2 で終えて, 7 人で昼食をともにしたのだが, その際に大阪の事件の話題が出た(伯父の家は大阪にあることからそうなった). 僕は一切発言しなかったが, いたましい事件だったとあたりさわりのない会話が目の前で繰り広げられていた. そこでぼんやりと覚えた違和感と, 自分なりのもともとあった思考をまとめてひとつの記事にしようと思う.

事件の動機

ところで, この事件でも殺人事件や凶悪事件が起きると, 人々はなぜか犯行の動機を知りたがる. それも自分たちが納得できる理由でないとダメで, たとえば 「人を殺してみたかった」 だと理解できないテレビのコメンテーターや僕の父親が言う. この事件の容疑者が結局どのような動機を述べたのかよく知らないが, たぶん世間様が納得するようなことは述べていないのだと思う. だが, そもそも動機って理解したいものだろうか?

「先生、何故、(犯人の名前)は、(被害者)を殺したのですか?」 (中略)
「さあ、 どうでしょう。 こういった問題は、 どう捉えてみても、 正しいとか間違っているとか、 言えないんじゃないですか? まあ、 本人がいるのですから、 (犯人)さんにきいてみて下さい。僕には想像もつきません」 犀川は煙草をくわえ、 煙そうに片目を細める。 「動機なんて、 本当のところ、 僕は、 聞きたくもないし、 聞いても理解できないでしょう。 それに、 本人だって説明できるかどうか……。 こんか欲望が、 言葉に還元できるものでしょうか? 他人に説明できて、 理解してもらえるくらいなら、 人を殺したりしない。 そうではありませんか?」

詩的私的ジャック*3(森博嗣, 講談社文庫)より引用した. (ネタばれになるので一部変更した部分がある)

詩的私的ジャック (講談社文庫)

詩的私的ジャック (講談社文庫)

引用したとおりであるが, そもそもなぜ人々は動機を我々は知りたがるのだろう, あるいは理解したがる, 理解したと錯覚したがるのだろう.
前述のように, 金や女のトラブルなら合点がいき, なんとなく人を殺してみたかったではいけない理由はなんなのだろうか. いやそもそもどちらも理解できない人間が一番健全ではないだろうか.

それぞれの善意

先に断っておくが, これを偽善だと主張するつもりは僕にはないし, すべて僕には理解できない人の行動を推測しているので, 全員が全員このように行動しているとも思っていない.

本人たちにその自覚があるかないかは別にして, 被害者や遺族に起きた悲劇を自分の中で消費した結果が 「痛ましい事件だ」 との同情であったり, 「どうしてこんなひどいことをしたんだ」 という加害者への怒りの表明なのだと思う. しかしそれはほとんどの場合, 実際に起きた(自分の身に降りかからなかった)悲劇を単に物語として, コンテンツとして消費した結果の発現だろう. なぜなら, 僕が映画を見るときに求めることと彼らが殺人事件の報道に求めることが似通っているように感じられるからだ. つまり, 実際に起きた殺人事件もサスペンス映画も二時間ドラマも同じようなものとして扱っている人が多い(少なくともマスコミはそういう人に向けて報道している)というのが現状なのだと思う.

きっとそれは彼らにとって善なのだと思う. つまり自分には関係ないことであっても自分の体験のように感じ, 傷み入り, 被害者には同情を, 加害者には怒りをぶつけ警察に真相の究明を求める. だが, 僕にはその行為は加害者が与えマスコミが報じた '事実' を消費して楽しんでいるように見える. 僕が小説を読むように, 映画を見るように, 彼らは報道を見ているのではないかと思う. 実際に起きた殺人事件が '商品' のように扱われているように僕には思われる.

だから僕は報道も何も見なくなったし知りたくなくなった. 僕が事実を得たところで, 消費することしかできない. 自分の知らない誰かが経験した非日常として, 物語として.
僕が何も知らないでいようと決めたところで何も変わらない. しかし, 僕はどうしてもどんな事実もコンテンツとして消費してしまうような人にはなりたくない. それもまた, 僕の善意である.

認め合う

僕には彼らなりの善意を理解できないし, 彼らは僕の善意を理解できないだろうと思う. 僕はそれでいい. いや, 僕だけでなく人類はもっと理解できないことに寛容であるべきだと思うのだ. すべての人間とわかりあうことはできない, すべての事象を理解することはできない. しかし他者の思いを, 行動を尊重することはできるはず. そんな風に今は思う.

アシタカは好きだ、でも人間を許すことはできない。
それでもいい。サンは森でわたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう。会いにいくよ。ヤックルに乗って。

アシタカは好きだ、でも人間を許すことはできない。もののけ姫の名言 | あなたを変える名言の森

もののけ姫のラストシーンのセリフである. 許すことはできないがともに生きることはできる……いや, これ以上何を言っても無駄か. もう何も言うまい.

*1:中学校の頃, みなメディアから離れて生活をするべきだという旨の作文だか小論文だかを書いたことがある. その添削で 「人がメディアから完全に切り離されたら生活をするのは不可能です」と書いてあってこの採点官は誰を代弁しているのだろうと思ったのを覚えている

*2:どれくらい辺境の地かというと, 祖父がその地に住むようになった理由は戦争による疎開だったらしい

*3:好きな小説を 3 冊挙げるとしたらこの 1 冊は挙げたいと思う. 前に引用したセリフも含めすごく好きな作品である.